[訃報]前オリックス監督の仰木彬氏が死去
ニッポン放送の「東貴博ニッポン全国ラジベガス」で、ゲストの三宅裕司さんの「ヤンパラ」関係の懐かしい話を聴いていたところに、突然ニュース速報が入ったのだが、内容を聞いて驚いた。前オリックス監督の仰木彬氏が亡くなったという。以下はYOMIURI ONLINE(読売新聞)から。
前オリックス監督の仰木彬氏が死去
プロ野球の近鉄とオリックスで監督を務めた仰木彬(おおぎ・あきら)さんが15日、福岡県内の病院で死去した。70歳だった。
福岡・東筑高から1953年夏の全国高校野球大会に出場し、54年に西鉄に入団。三原脩監督の指揮で黄金時代を築いた西鉄の二塁手として活躍し、67年に引退。70年から18年間、近鉄コーチを務め、88年から92年まで監督。ロッテとのダブルヘッダーとなった88年最終戦は、時間切れ引き分けでリーグ優勝を逃した。その日付の「10・19」は、球界の語り草となっている。
翌89年にリーグ優勝。94年にオリックス監督に就任。阪神大震災に見舞われた95年には「がんばろう神戸」を合言葉に、パ・リーグ制覇を成し遂げた。96年にはリーグ連覇を果たしたうえで“長嶋・巨人”を破って日本一にも輝き、正力松太郎賞を受賞した。
今季、近鉄とオリックスが統合された新生「オリックス・バファローズ」の監督に就任。巧みな選手起用でプレーオフ進出争いを演じ、最終的には4位だった。今季終了後、監督を勇退し、オリックスのシニアアドバイザーに就任していた。
データを生かした緻密(ちみつ)で、なおかつ大胆なさい配は「仰木マジック」と称賛された。近鉄では野茂英雄投手をエースとして起用、オリックスでは、無名だった鈴木一朗外野手(現マリナーズ)を「イチロー」の登録名で、7年連続首位打者を獲得する球界のスーパースターに育て上げた。
監督としての通算成績は近鉄、オリックス時代の14年間で988勝815敗53引き分け。勝率5割4分8厘。
ネット上にはいくつか記事が上がっているが、現時点で一番過不足なくまとめていると思うのがこの記事だ。
元々自分は在阪球団を中心に応援してきたこともあって、上記記事のうち、88年最終戦「10・19」は当時、試験勉強そっちのけで、急遽放送されたテレビ朝日のCM抜き全国中継にかじりついたものだ。
手元には市販の「10・19」のビデオ(文藝春秋Numberビデオ)があるが、かなりダイジェストになっているのに今見返しても当時の興奮がよみがえってくる。できればスカイAあたりで、当時の放送のまま(ABCローカル→全国ネット→ニュースステーションへ食い込み)再放送してもらいたいのだが…。
そして、95年の「がんばろう神戸」パ・リーグ制覇、そして翌年の日本一は、球場へは行けなかったもののテレビ・ラジオの生中継で観戦。個人的には、今思えば一番プロ野球に関心を持って見ていて、また、自分の関心に応えてくれるような面白く見ごたえのある試合が見られた時期だった。
その「仰木マジック」と呼ばれる采配だが、確かに、何か「オモロイことをやってくれる」という印象が仰木監督にはあったし、単に奇をてらって面白いだけでなく、今シーズンも3年連続最下位だったオリックスを大した補強もなく4位に押し上げたように勝負も強かったから(でも、ダントツに強いというところまで行かないのがまた面白い)見ていて楽しかった。こういう監督はこれからなかなか出てこないだろう。
ちなみにオリックス日本一の後は、あの玄人集団を次々と解雇・トレードして案の定見事に弱体化していくオリックス球団のやり方を見るにつけ、自分自身は野球そのものへの関心が薄れていってしまった。
だから昨年からのオリックス・近鉄合併のゴタゴタを見ていて、「こんなところに仰木監督が担ぎ出されないといいけど…」と危惧していたところ、やっぱり担ぎ出されてしまい、応援しようかしまいか複雑な気持ちになったものだ。それにしてもまたまだ活躍されると思っていただけに、残念で仕方がない。
故人のご冥福をお祈りいたします。
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